2021.11.11
お話を聞かせてくださった方:神奈川県 S様
出産時のことや、産後直後のあなたのお気持ちを聞かせてください。
妊婦検診で胎児発育不全と羊水過小を指摘され県立こども医療センターへ搬送、翌日出産しました。 出産前、「小さすぎて呼吸器を装着できず腕の中で見送るだけになるかもしれない、生存確率は5%、一生障害が残る可能性もあるがどうするか」と問われ、一生寝たきりになる覚悟を持って出産を決意しました。
出産日は、偶然にも直前に流産をしていた第一子の予定日です。 出産直後、帝王切開の後処置中に体温低下防止でラップを巻いた娘に会わせていただきました。
小さな手足を一生懸命に動かしてくれていた姿は一生忘れません。 触れると壊れてしまいそうな、皮膚の透き通った小さな身体。
最初に乗り越えるべき脳室内出血が起こりやすい「72時間の壁」と闘っている娘を見ながら、「私が正しく生きてこなかったバチで娘が苦しんでる」「私のせいでこのまま死んでしまうのかもしれない」「小さく産んでごめんね」「お願いだから生きて」と繰り返し祈り続けていました。
初めてNICUへ面会に行った際、私は泣きながら「ごめんね」と言っていたそうです。「産まれてきてくれてありがとう」と思っていたはずなのに、出てきた言葉は違っていました。
万が一にも命がなくなる前にと、出産から2日後に慌てて名前を決めました。 3つに絞った候補名を保育器の外で私が読み上げ、娘の身体が反応した「M」に決まりました。主治医や看護師の方々も見守ってくださっていて、温かい笑い声に包まれた優しい時間でした。
ご家族や周囲の人からのサポートで、嬉しかったこと・傷ついたことを教えて下さい。
正直、辛かったことしか思い出せません。
・面会に来た父が新生児室を覗きながら、「うちの孫はどこだ」と言い、「そこには居ないよ」と答えたこと
・産後1週間、片道1.5時間の道のりを毎日面会に通っていた頃。帝王切開の傷が痛くてしんどいと主人に伝えたところ、「Mが頑張ってるんだから頑張れよ」と言われた。
・出産祝いの希望を聞かれても、生きて帰れるかわからない中では何も浮かばなかった
・「小さく産んで大きく育てればいい」と言われるたびに、「そんな単純なものではない」と腹が立ち、小さく産んだ自分を責めた
・退院後、2,500gに満たない娘を連れて外来に通う際、近くを通りかかったご老人に「小さすぎて犬でも抱っこしてるのかと思った」と言われた
・眼科の診察待ち中に、いろいろなご老人から「こんなに小さいのにかわいそう」と何度も言われた
ここまで書いて、友人に言われた嬉しかった言葉を2つ思い出しました。気遣いが本当に嬉しかったです。
・Aちゃんがママだったら頑張れるってママを選んできたんだね。
・どんな言葉で(私が)傷つくのかがわからないから、もし嫌なことを言ってしまったら教えてね。
(生後3週間)
赤ちゃんの授乳・栄養法の変化や、面会がどんな風だったかなど、入院中のご様子について教えて下さい。
授乳は生後2ヶ月半ごろ開始しました。母乳だけでは栄養が足りず、強化母乳を追加していました。 出生病院は24時間面会可能でしたが、地元病院へ転院後は1日2回数時間の面会のみ。それまで沐浴や授乳をするため1日8時間面会をしていたのに、洋服も持ち込めず、沐浴もできず、面会時間はほぼ授乳練習で終了。自分の子供なのに「借りている」ような気分になり、鬱になりかけました。
(1,000g記念) (パパの初沐浴・ボール風呂)
搾乳について、その時のお気持ちやエピソードを聞かせて下さい。
母乳の出が悪く、1回の搾乳で100mlを超えたことは数えるほど。大きな母乳バッグを使えるようになりたいと思っていました。
授乳ができる日を夢見て、母乳が枯れないよう毎日タイマーをかけて搾乳をしていました。赤ちゃんの泣き声に合わせておっぱいをあげられる正期産がママが本当に羨ましく、泣きながら搾乳をすることも。
母乳を増やすために、助産師さんにマッサージをしていただいたり、母乳外来で薬を処方していただいたり、母乳の出を増やすというお茶を毎日1L 以上飲んでいました。 1時間近くかけて絞り出し、消毒をして少し一息をついたらあっという間に次の搾乳時間がやってきました。
8時間の面会といっても、搾乳にかけていた時間がとても多かったです。 また、機械だけではうまく出なかったので手絞りを併用しており、腱鞘炎とバネ指にもなりました。冬の朝は指が固まってしまい、動くようになるまで数分かかりました。自分の母乳を飲ませたい一心で頑張りましたが、本当に辛かったです。
冷凍母乳(カネソン母乳バッグ)に関するエピソードや、カネソンへのメッセージがあればお願いします。
冷凍庫は一段全て母乳冷凍用に使っていました。娘の飲む量の方が多くなりどんどん冷凍母乳がなくなっていきましたが、最後のひとつがなくなるまで冷凍庫には母乳しか入れませんでした。娘の退院後は、私が休んでいる間に主人が冷凍母乳をあげてくれることもありました。 本当にお世話になり感謝の気持ちでいっぱいです。写真は我が家の冷凍庫に入れていた母乳バッグです!
なぜか母乳以外のものを冷凍庫に入れたくなくて、在庫が最後の一個になるまでこの状態にしていました。
なんとか退院まで保たせることができましたが、最後のひとつを使う時は、母乳バッグに向かって泣きながらありがとうと言った事を覚えています。
母乳バッグのおかげで、母乳を病院に届けることもできましたし、退院後は主人が代わりに哺乳瓶で母乳をあげることができて、その間休憩することもできました。
カネソンさんは、シールに可愛いキャラクターがあったり、哺乳瓶に入れやすい形だったりと、使いやすかった記憶です。
当時の自分に伝えてあげたいこと、当時の自分に声をかけてあげるとしたらどんなことですか。
泣きながらでも頑張って良かったね。初めておっぱいを飲んでくれたこと、飲みながら眠ってくれたときのこと、全部全部、一生忘れない大切な思い出だよ。
いまのお子様へ、ひとことどうぞ!
元気に笑ってくれるだけでいい。産まれてきてくれて、私をお母さんにしてくれて本当にありがとう!
(修正3歳) (3歳のバースデーフォト)
現在、赤ちゃんがNICUにいるお母さん・ご家族へのメッセージをお願いします。
お母さんへ 今の悩みや不安もいつか全部笑い飛ばせるようになります。そしてママは一人じゃありません。全国にたくさんの先輩ママもいます。一緒に頑張りましょう!
お話を聞かせて下さり、ありがとうございました。